1985年に Doug Peterson氏が乗る事になったCRX GT4 RACER について解説する前に
秘密基地(無限)と言う会社をほんの少しだけ解説いたします。
私の入社は(1983年秋からアルバイトで先行入社し)1984年の春でして
当時創業10年目
社員総数30名プラスの小さな会社でありました。
入社以前の事は
会社に残っていた記録や親分(本田博俊社長)から聞きかじったもので、今となっては遠い昔の怪しき記憶だより のため
以下の冊子を参考にしておりますが正確さに欠くことはご了解ください。
First of all, I will explain Mugen Company Limited Just a little.
I joined in the spring of 1984.
( I joined the pate-time job from fall of 1983.)
At that time the company had been founded ten years.
It was small company with a total 30 employees plus.
Before joining the company, it is something that I heard from my boss or left in the company records.
Please understand that it is lacking in accuracy.
ちなみにこの冊子、北米勤務時代に自分が製作した物です♪
秘密基地(無限)は1973年に本田博俊氏によって興された会社で、
最初の商品はCIVIC用1200㏄エンジンがベースの、MF318 と名付けられたFJ1300 フォーミュラ向けのエンジンでありました。
Mugen Co., Lid. Was founded in 1973, and its first product was MF318 race motor for FJ 1300 class racing.
このMF318エンジンを搭載したGRD製FJ1300が最初のレースで優勝したために
当時このクラスで主流だった日産A12エンジンからコンバートするチームが相次いだのですが、
如何せん完成したばかりで実績不足&未熟成でありまして
・・・・・
その後
未知の不具合が多発し多くのチームに迷惑をかけてしまった様です。
The GRD formula with this MF318 motor won the first race,
As a result a series of team were changing from Nissan that were mainstream in this class to Mugen.
But the engine was just finished and was still immature
After that the engine caused trouble to many teams.
https://www.saclam.com/todays/todays_saclam/2018/04/-grda.html
https://www.saclam.com/todays/todays_saclam/2017/09/post-2037.html
https://www.saclam.com/todays/todays_saclam/2015/03/a-a-a-a-a-40.html
親分は時々思い出したように、ニコニコしながらではありますが
「出走できないチームが多発して・・・・レースにならない事さえあったね・・・♪」
等と懐かしそうに話すのです
。
レースが成立しなくなってしまったのですから
そりゃ大事件だったでしょう
!!
As I remembered from time to time, my boss talks as if he is smiling, but he often misses that many teams that cannot run out have even been unable to race.
I think it would have been a big incident!
1976年
親分が
「じゃあ・・・モトクロスをやろうよ♪」
と決めまして
市販モトクロッサーを大改造(と言うより80%以上作り変えて)し日本選手権に参戦いたしました。
ライダーは、あのゴリラの様な鈴木秀明さんです。
1976
Hirotoshi san decided to enter Moto Cross racing, and entered all japan series with heavily modified Honda bike.
Hideaki Suzuki was its rider.
同時にEUサテライトチーム用のコンプリート・バイクやチューニングパーツを販売開始されまして
国内のみならず海外にも
チューニングパーツ類やホンダベースのコンプリートモトクロッサーを輸出しておりました。
Complete race bike for satellite teams or tuning parts were started to sell,
Not only domestic but also overseas.
1979年~1980年には
親分は無限USAを設立し北米選手権へチャレンジを開始しまして、USグランプリを含め幾度かのレースで勝利されたのだそうです。
Hirotoshi san founded US-MUGEN and started its challenge to US MX series.
天才ライダーのジョニーオマラが
他のワークス勢相手に大活躍してくれたそうです♪
White bike won some national race included US GP by Johnny-O!
しかしその4年後
私が社長のお供で初渡米した1984年の秋には、既にMUGEN USA は会社としての活動を休止していました。
MUGEN USAの社長を務めていたAL BAKER氏とはその後も大の親友関係でありましたから
北米オフロードバイク・ビジネスの難しさに直面しての休止判断だったと想像いたします。
レース活動費をスポンサーさん達から頂けるような世界でもなかったでしょうから
収入より支出の方が大きかったのでありましょう。
自分自身ずいぶんと後になってから感じたことですが
レースやレースパーツに関する活動やビジネスを継続してゆくのは簡単ではないのです。
When I went to the US 1984, that was 4 years after Johnny-O,
US-MUGEN had been stopped its activity.
Because he maintained a great close friend ship with AL BAKER who was director of MUGEN USA,
I think that it was a decision to suspend by the difficulty of Moto business in North America.
It would not have been a world where sponsors could get the cost of bike racing,
The money spent in the race would have been greater than the proceeds from selling parts.
It is something that I felt a long time since then,
It is not easy to continue the activities and business about racing or parts business.
1984年
CRXが世に出た頃
博俊親分は アメリカ・ホンダのM社長(その後自工会の会長になった方です。)から、何度も熱心に、
北米への再チャレンジを提言され2回目の北米進出を決めました。
が、しかしそれまでの経験から
「海外でのレースとそれに連動した関連ビジネスは・・・そんなに簡単じゃあ無いぞ。」
と思われていたようです。
自社ブランド拡販のためのレース活動は
レースでの消費が多くて・・・・・・部品が沢山売れないと・・・・・続行出来ないのです。
レース活動自体にスポンサーが付けば別ですが
当時親分はその様な事をあまり考えてはいなかった様に思います。
2回目の北米チャレンジは、AHMと言う会社を通じての共同ビジネスであり
以下の主題が有りました。
CRXでレース活動を行いHONDAとMUGENのブランド力向上に貢献し、
AHMのデーラー網を通じてMUGENパーツを販売しMUGENパーツビジネスを成立させる。
この案は採用されませんでしたが
・・・・
当初、CRXでのワンメイクス・レース等も検討されていたようで
秘密基地でライト・チューニングされたCRXをアメリカホンダに送りウイロ―スプリングスに雑誌社を集めての
試乗テスト等を行った事も有りました。
その後このCRXは84年の秋にラスベガスのホテルで行われた
全米のホンダデーラー・オーナーさん達向けの新車先行発表会にも展示され公開されました。
この展示会(内覧会)に説明員として初渡米し参加しましたが
CRX人気との相乗効果もありまして
人気ありましたね♪
この時代の
https://www.saclam.com/todays/todays_saclam/2019/04/usa-1.html
1984
Hirotoshi san was persuasively persuaded to take on challenge again from Mr. M who was president of AHM and decided to do second challenge.
But I think,
Hirotoshi san seemed to think that race related parts business was not so easy.
Race activity for sales promotion of own brand was very expensive to continue without amount of budget.
It mean certain amount of profit from parts sales.
It would be different if sponsors attached to the race activity itself, but at that time it was promotion for own parts.
The second challenge was the joint business with AHM and had two goals.
Carry out race activities with CRX to improve Honda brand and Mugen brand.
Distributor Mugen parts through AHM dearer network, and establish Mugen parts business.
This proposal was not adopted,
It seemed that one make race with CRX was also considered.
Send a light tuned CRX by Mugen to AHM, and show off Magazines at Willow Springs.
Later on this CRX was in the dearer convention held at the MGM grand at Las Vegas.
I went to the US first time as an explanatory member for this convention,
This CRX was so popular.
その後レース活動を行うカテゴリーをSCCAのGT4クラスに決まり
急仕立てのテストエンジンがAHMに送られ
足回りを固めただけの標準CRXに積まれてポテンシャルテストが行われました。
腰下周りはウェットサンプのままでしたから、当然のごとく油圧切れを起こしてしまいまして
本格的なドライサンプ・エンジンを作ることが決定したのでありました。
After that AHM and Mugen agreed to the race category GT4.
Mugen built test engine and shipped to AHM .
It was tested on a red CRX with race tire.
Because test engine was still a wet sump, oil pressure was cut off as a matter of cause.
That why it was decided to make a dry sump engine.
上記のような流れで
1984年の冬
秘密基地のF2エンジン・開発チームが本業を中断し、2か月間の間総がかりでCRX/GT4エンジンを製作することになったのです。
With the above flow, GT4 was going to be built in the winter of 1984.
F2 team in charge of engine development and its maintenance stopped their original duties 2 month
and build four GT4 engines.
マネージャーのS氏
既に他界されました。((お世話になりました!))
Manager Mr.S
Already called to haven. (( Thank You for all the help you have given.))
設計担当のT氏
ILMORに移籍し(今も)レースエンジンを設計していると思ういます・・・が。
Designer Mr.T
Transfer to ILMOR and designing race engine.
組立とベンチ担当のH氏
GIBSON TECHNOLOGY と言うレースエンジンメーカーに移籍し、今も頑張っています。
((2月ほど前に、インターネット上に彼の手掛けたGT4エンジンを見つけ、E-MAILを送ってくれました。))
Tuning and Dyno test: Mr.H
Transfer to GIBSON TECHNOLOGY, continues to work on race engines today.
((2 month before he gave me an E-MAIL with a picture of GT4 engine.))
組立担当のT氏:
その後自動車業界から離れたと聞いています。
In charge of tuning and assembling: Mr.T
I heard that he left car industry 10 years ago.
組立担当のN氏
退社後の消息不明であります。
Assembling: Mr. N
15 years ago he left this company.
新人だったT君
今やレースチームの総監督です!
Newcomer: Mr.T
General Manager of race team now.
その職業を極める事に人生をかけている人の事を
(私は勝手に)
職業人と呼んでいます
。
例えば・・・お医者さん・・・。
大病院に所属して・・・・月給を貰っていらっしゃる・・・・お医者さん達ですが
企業人かと問われれば・・・NOですね・・・。
病院の都合で・・・事務職に配置転換されたら・・・他の勤務先を探して・・・・お医者さんを続けるでしょ。
ですから・・・・医業に執着した職業人と・・・・分類いたします。
一方
自動車メーカーにお勤めの開発エンジニアさん達はと言いますと
企業人と分類いたします。
会社の都合で別の部署に配置転換となった時に、どの様に対応するかで違ってきますが
多くの人は会社の指示に従います。
ですから・・企業人なのです。
(( 中にはそうじゃ無い・・・困った方々も・・・・いらっしゃいますけれどね。))
上記のGT4エンジンを製作した当時のF2エンジンチームの面々ですが
海外のエンジンメーカーでその後もエンジン屋として生きている人も居ますし
夢半ばでリタイヤしてしまった人たちも
おりますが
・・・
その多くが皆さんがレースエンジン屋を貫き(あるいは貫こうとした)職業人達でありました。
自分の場合は如何なのであろうか?
と問うてみましたが
・・・・・・・・・・
・・・・・
如何なんでしょうね
・・・・・
・・・
??